
シングルマザーになったのは、人それぞれで色んな出来事があったと思います。自分から仕方なくなった人、周りの人々からのあつれきや夫が自分保因で出て行った人、様々な出来事が有ったと思いますが、これだけは知って下さい。
私も自分の母親が仕方がなくシングルマザーになってしまい、3人の子供を育て上げました。
ですから、今日は子供の立場からその思いを書きたいと思います。父は私の母親と3人の子供を置いて出ていきました。
そのわけは知っていますが、あまりにも自分勝手な父の行動に呆れて書く事も出来ません。
もう何40年前にあの世に行ってしまった父、申し訳ないですが葬式に行きましたが涙一つ出ませんでした。
そしてしばらく母共にそこそこ幸せに生きていましたが神戸地震の後直ぐに後に母も亡くなりました。
しかしながら母は3組の子供の家庭、8人の孫に惜しまれてあの世に旅立っていきました。前半の生きていく事は大変でしたが、後半の人生は割と穏やかな暮らしをしていました。
正月やお盆休みは3家庭、合わせて母親を合わせて15人が集まり賑やかな家族を作る事ができました。
それでは、過去に溯り父が出て行ったあとからの生活環境は60年たったのに子供心にハッキリと忘れる事が出来ません。
もの心をついたときは、母がよく言っていたのが私の妹が何ヶ月の乳飲み子を置いて父は家族を置いて出ていきました。
戦後少したってからですのでまだ、日本全体が豊かになっていませんでした。家は昔ながらの長屋今でいう2DK、3家庭水道も共有でした。
勿論その頃はガスも無いのでひちりんでご飯や煮焚きしていました。洗濯も洗濯タライで洗濯板でごしごしと洗濯していたのを思い出します。
この時代が一番大変でした。父が出て行った当初、乳飲み子を抱えた母は働く事も出来ません。
持っていた、着物など質屋に預けてお金を借りていましたが、お金を返せないので物は帰ってきません。
ドンドン質屋に着物を持ってその日暮らしをしていました。そしてもう売る物を無くなって絶望の時が来ました。
私達はお腹が空いて母にお腹すいたと言って困らせました。もう米を買う事も出来ないので母は小麦粉を団子にして味噌汁に入れて食べさせました。
しかし、その小麦粉も無くなった時何も食べるものが有りません。母は絶望感で生きるために自分の血「昔は血を売る事が出来ました」売って少しの現金を貰い、米1升を買って来ました。
しかし、1升の米は1日分にもならず、お粥にしてしのぎました。その血を売る事何度かしたら、それ以上は命がなくなるのでストップされてもう現金の入る道は有りません。
少し離れた母親のお姉さんにお金を借りに行きましたが、何度か行くともう貸すことは出来ないと言われて絶望になり、母は乳飲み子をおんぶして、私と兄を両手につないで、電車の踏切に行きました。
もう死ぬしかないほど母親は追いやられていました。そして電車が走ってきて飛び込む寸前、私と兄は死ぬのは嫌だ~と叫びました。
寸前で母は死ぬのを諦めて子供とみんなで泣いたと言っていました。そして母は死ぬ気で働き始めました。
何とか子供を預ける働く場所が見つかりました。勿論兄と私達は家で過ごしました。しかしそれでも何とか3食のご飯にありつけるかは不安がいつもありました。
やがて兄と私は小学生になり、妹も幼稚園に入って私も何度か妹を送り迎えをした記憶があります。
しかし、貧しさは一向にかいぜんしませんでした。母親もつかれると民生委員にお願いするかと言っていました。
私はそれがどの様な意味があるかわからないので、何か悪い事のように感じました。「昔の人その様に感じていました」。
給食が一番の安心して食べるご馳走でしたが、給食費が払えないと先生から母に手紙を渡されたことがよくありました。
そして兄は中学生になりましたが貧し暮らしは変わりません。ある時お弁当を持って行かない時兄は家に帰ってご飯を食べると言って帰って来ましたが、食べるものが無いので仕方がなく水を飲んで我慢しました。
そうこうしているうちに妹も小学生になり母も家庭の為に全面的に働く事が出来ました。幸い母は准看護士の免許を持っていましたので看護師として朝昼夜、休みなく働いていましたので、少し何とかギリギリ生活が出来ました。
生活も煮炊きはプロパンガスが備える事が出来、水道も各家庭にそなえられました。何とか最低限ですが、人並みの生活が送れるようになりました。
母は相変わらず、日勤で朝働きに行くと夜7時頃に帰り、ある時は準夜と言って夜の10時過ぎに帰り、夜勤は夕方から朝に帰って来て少し休み、家の事をしました。
思い出すのは、妹も言っていましたが、母はいつも疲れた顔をして一生懸命に家族のためにそれこそ身を粉にして働き続けていました。
そしてやがて兄も商業高校に入り、卒業して、私も夜間高校生となってアルバイトをしながら割と楽しい時間を過ごせました。
このころにになると母も病院の婦長になって少し普通の人の生活が出来るようになりました。妹も短大卒業して、私達3人の子供もそれぞれ働きに行きそれぞれ独立を果たし、母は兄の家族と一緒に同居しながら、相変わらず働きました。
そしてついに国から勲5等、瑞宝章をいただくことになりました。皇居に行き天皇陛下からお言葉をいただきました。
前半の苦労はそれこそ血を滲む苦労の連続でしたが、後半は3家族8人の孫に囲まれて賑やかな家庭に過ごしました。
子供の気持ち
矢張り寂しさと経済的にも苦労しました。学校の参観日もほとんど来れない事が多いので参観日はあまりいい思いはなかったです。
近所の友達の家に行くといつもお母さんがいますが、私達はほとんどいませんでした。夕方になると友達の家は夕ご飯の支度でいい匂いがしますが、家に帰っても寒々としていました。
私達は7時過ぎに母が帰って来て、慌ててご飯の用意をしますので、店やもんが多かったですね。子供心に寂しい夕暮れ時でした。
冬になるとすきま風が吹き窓などがヒューヒューとなり母が疲れた顔を見たら切ない気持ちで寒い夜を過ごしました。
時にはもし母が病気になって倒れたらどうなるのかとか、子供心に不安が広がってきます。
しかしながら、私達の為に一生懸命に働いている母の姿に何とか早く経済的にも助けることをしなくてはならないと、牛乳配達もしましたが、あまりにも厳しかったので長くは続けませんでした。
ですが、いつも母に少しでも早く楽させたい気持ちはあり、子供心に親孝行を早くしたいと思いました。
安心してください。子供は母親の苦労を一番知っています。父親がいない分寂しさはありましたが、母親の愛情はそれらをカバーします。
親の愛情は母親の一生懸命に生きる姿が一番の教育です。苦労は有ります!夫婦でも子育は大変です。
片親ならもっと大変ですが、今は昔と違い色んな公的支援もあります。それらをフルに利用してください。
一つの提案
母が何とか生きていくのに役立だつのは看護師の資格でした。もし貴方が何か資格を取りたいのであれば、是非とも勉強してください。
その為には躊躇しなくて、生活保護を受けて下さい!未来の為一時は国のお世話になってください。
そしてやがては国に貢献できる人になればいいのです。あのハリーポッターの作者も生活保護を受けながら書き上げたのです。
後に何十倍何百倍も国に貢献しました。貴方もそして子供を育てる事でそれだけで国に貢献できます。
益々少子化問題が深刻になっています。子供を育てる事が最高の国に対する貢献です。生きていく事が大変な中頑張って生きて行きましょう。
貴方も、子供を育てる事で幸せになる事が出来ます。みんな幸せになるために生まれてきました。
私の母親も後半は割と幸せな人生を送りました。あちこち旅行に行きました。3家庭でも一緒によく旅行しました。本当に楽しそうな母親の顔を思い出します。
幸せな人生を!
お問合せ、masakitsuchie9990@gmail.com